wednes’s blog

一般的に「よきもの」として語られる事柄に対して負の意見をもったとき、多くの場合、飲み込むしかなかった。 しかしいま、だれでもweb上で発信・受信ができるいま、「よきもの」に反発を覚える少数意見を「検索」で見つけて励まされたことは数えきれない。

ジュンク堂の本棚

仕事で使う本を見繕いに、ジュンク堂にがん関連の書籍を見に行った。

いつも、がん患者を食い物にする根拠のない食事療法や免疫力アップしてどうこうという言説には、どちらかというと怒りを感じていたが、今日は初めて気づいた視点があった。

がん患者にとって、こういう本にお金を払って読むことが、エンターテイメントになるのかもしれない。

がん患者でなくとも、自然に心惹かれる、「興味が持てること」「面白いと思うこと」がたくさんあるという人は少ない。毎日の料理に腐心することや、青空文庫の古典を読むことが心から楽しめるならばそれはそれで良い…というか、とても幸せなことだ。私の日常に起きているのはむしろ、ちょっとしたことをネットサーフィンして気付いたら何時間も経って、無自覚のうちに欲望や興味が作り変えられていくようなこと、マルチタスクすぎる思考回路のせいで、自分が外発的に更新されるその過程を後から検証することができないこと。自分の内から湧く興味というのが何なのか、もはやわからない。

良い悪いでなく、それが現代のエンターテイメントのそこそこメジャーな形なのだとすると、がん患者にとっての「がんトンデモ本」とは、当事者が興味があることを(この本は私のことを書いている!)、ファンタジーだとしても、扇情的に心を揺さぶるように書いているのだから 面白いにきまっている。

どんな実用書も同じだが、読書の中で内容を実行に移す人は一部なわけなので、暇つぶしの読書としては悪くないのかもしれない。

しかし、すすめない。おそらく読書後にもたらされるものは、参院選候補者の政策を調べようとしていていつの間にか、誰かのブログで根拠のない陰謀論を何ページも読んでしまった後の無力感と同じものではと思うからだ。そっちに流れてしまいがちだと、そこは強く共感した上で、エンターテイメントと割り切ったって、やはりすすめない。

6/25

近所の居酒屋、子供okと書いてあるところに行く。飲み屋なので結局のところ、どの程度okなのかはよくわからないが、概ね大迷惑にはならず。

イナダ、カツオ、タイのお刺身とシャモのメンチカツが美味しい。

後悔するのが怖くて断捨離できないが、何かきっかけがあれば、思いつきで全て捨ててしまうかもしれない。そのくらいの準備段階には入っている気がする。

「がんとともに生きる」が終わるとき。"What do you say when she is no longer living with cancer?" -1

JCO- Journal of Clinical Oncology という医学雑誌があります。

あらゆる種類の腫瘍に関する世界中の最新の研究成果やレビューを集め、月に3回という発行頻度も相まって、量・質ともに腫瘍内科領域最大のキージャーナルといえます。

もちろん科学としての医学雑誌なので、新薬の早期フェイズの試験や標準治療に新たな知見を追加するランダム化比較試験等を筆頭に、客観的なデザインと統計処理が採択の必須条件であり、クールに結果を報告する研究論文が多いのですが…

そんな雑誌を読んでいて、さきほど不覚にも、不意を突かれて泣かされてしまいました。たまたまデスクに郵便物を持ってきてくれた医局秘書さんに、昼間っから泣いてるのを見られてちょっと気まずい。

 

Art of Oncology (「腫瘍診療の技術」)というコラムシリースで、題名は "what do you say when she is no longer living with cancer?"です。

 

直訳は

what do you say 「あなたは何と言いますか?」

when she is no longer living with cancer 「彼女が、もはや がんと共に生きていないときに」

とでもなるでしょうか。

この「no longer living with cancer」を、どうとりますか?

最初私が思ったのは、「がんが治った」シチュエーション。

手術して、場合により術後薬物療法をし、ひととおりの根治的治療が終わった患者さん。

あるいは、標準治療がないようなレアな状況で、治療が奏功して一見、画像上どこにも残存病変がないようにみえるけれど…という患者さん。

がん腫によって意味合いが違いますが、そういった状況や心構えを、どう説明するのか?というような話かな、確かに難しいよな、などと勝手に思って記事を開きました。

 

しかし、違ったのです。

living with cancer は、根治不可能ながんを患った方にとっての治療目標。

がんを患いながらも、よりその人らしく、できればより長く、生きることをサポートするのが、「治らないがんを治療する」ことの意味であります。

 

しかし、この記事でいう「no longer living with cancer」の状況は、

Her body had made that awfl transition from living with cancer to dying of it.

すなわち、「がんと共に生きる」ことから、「がんによって死ぬ」ことに移行するとき、私たち腫瘍医はどんなふうに話したらいいのだろう?という記事だったのです。

「なさけない」という言葉について

おじいちゃん

「わしはもう なさけのうて なさけのうてのう…」

 

言葉の意味について、辞書的な定義についてまず考えた(わからなかった)

 

「なさけない」

 

私は

あまりそういう気分になったことがない、ように思う

共感することがむずかしい、と思う

同時に きっとそんなに共感する必要がないんだろうと思う

共感できないことに居心地の悪さを覚えるのもまた、ちょっと病気なのかもしれない

 

共感病

クレバー コーヒー ドリッパー

お借りして使用しているドリッパーがなかなか良い。

通常のハンドドリップよりも大きなフィルターを使用するのだが、最近そちらのフィルターしか使用しなくなってきている。

 

一見、ハンドドリップのドリッパーとかわらない見た目なのだけど

 

ペーパーフィルターを敷いて→コーヒーを入れて→お湯を注いで

 

 【ハンドドリップ】→底の穴からコーヒーがぽた、ぽた、と落ちる

 【クレバー】→その状態で、数分キープ→マグやサーバーに載せるとじゃー…とコーヒーが落ちる

 

という違い。

テクニックも集中力も要らず、「濃い」安定した味のコーヒーができる。

 

また、最初にクレバーの使い方を調べたときに、手順に「フィルターを敷いた後、まずお湯を注ぎ入れて捨て、フィルターの”紙臭さ”を取る」とあり、

「紙臭さ…?そこまでこだわらなくていいんだけどな…」と、面倒に思ったものだが

この淹れ方だと、たしかに「紙臭さ」を感じるから不思議だ。

長時間お湯に浸っていると、紙臭さも抽出されてくるのか。

そうすると、クレバードリッパーに「金属フィルター」を組み合わせたらいいんじゃないか?なんて気がしてくるけれど、紙の手軽さを犠牲にするだけの勇気もなく、多少の「紙臭さ」に妥協して、でも満足している日々である。

色気のある医者 1

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あるインタビューで触れられていたので、久しぶりに「ブラックジャックによろしく」(がん病棟編)をひもといていたら、このセリフにぶつかりました。

 

じゃあ色気のある医者ってどんな人でしょうね。

ふと思い出したのは、たとえば研修医時代の上司で一般外科の若手の先生。

あまりの色気に、ネットのゲイ専門掲示板で評判になってしまい、痔の専門外来に患者さんが押し寄せてしまったという逸話を持つ。

背が高く趣味はサーフィン、イケメンなうえに声もよく、穏やかで誰にも優しく、かつ手術も検査も上手!という王子様のような方でした。

うーんでも、それは「色気」じゃなくて「王子」であってさ…という気はしますよね。

 

じゃあ色気って何でしょう…

九鬼周三は、「いきの構造」のなかで、「いき」とは「あきらめを含んだ媚態」であり、「上品」と「下品」のあいだ、「派手」と「地味」のあいだ、といったアンビバレントな要素に分解できるもの…というように言っていた気がします。

ただ「キャー素敵!」というのではなくて、そのひととの関係において何か色っぽい双方向性のベクトルの可能性(こちらから向こう、あるいは向こうからこちらへの)を、実現可能性はともかくとして思わず想像して多かれ少なかれどこかがうずいてしまうような、、そんな何かを「色気」というのかもしれません。

よく「色気」と「わかりやすいエロさ」は違う、といいますけど、「向こうからこちらへのベクトル」が可視的すぎるとダメということですかね。あくまで想像なのか妄想なのか、それとも…?くらいの感じがいい気はしますね。

しかし、ちょっと思うのが、相手の「色気」を感じるためには、自分にもある程度その気がないと(「誰かとどうにかなる」ことに対するスタンバイ状態でないと)だめなんじゃないか、ということです。

たとえば発情期のネコと私たちがお互い何も感じないように、人間同士もある程度自分にニーズがあって、かついろんな意味で「ありな」相手でないと、色気を感じ取れないようにできているのではないでしょうか。

しかし医者でそれが全面に出過ぎてるのも、困りますけど、この庄司先生の言いたいことは、患者さんやスタッフと軽く疑似恋愛しろという意味ではなくて、「そのくらいの生臭さ(人間臭さ)」を漂わせてたほうが患者さんが心をひらいてくれるとかそういう意味かなと思います。

昔の付き合っていた人(大手開業医の息子)が「結婚=社会的信用であり、それも医者にはすごく大事なこと」と言ってました。当時の私はそれはちょっとコンサバすぎると思いました。

が、まあそれにしても、バレンタインにチョコをあげたりもらったり、何人かと付き合ったり離れたり、トラブったり、結婚したり、別れたり、というようなことが「普通」であるとして、それ(「普通」であること)をにおわせる程度の色気があったほうがなんとなく安心してもらえるのは確かな気がします。医者に限らず。男も女も。

「感動?しないけど」とは、いいにくい。フラッシュバック母親教室。【教育という病 内田良】

「教育という病」(内田良)は面白かった。

私が学校を卒業したのはもう何十年も前だけど、いま、学校で「感動」を理由に、

いろんなリスクが看過されがちであることを、できるだけ客観的データとともに主張しようとした本です。

たとえば、

「組体操」(→「巨大化・高層化により促進される転落・怪我のリスク」)

「1/2成人式」(→「”いわゆる幸せな家庭”以外の児童に苦痛を与えるリスク」)

「部活動の厳しい指導」(→「しごきとも解釈できるようなエスカレートした暴力的指導によって子どもの心身にダメージを与えるリスク」)

など。

 

本書は教育現場に材を取っています。

たしかに、義務教育やそれに近い高校という単位は、「みんなでやる行事」に異を唱えるのは色々な理由から難しい。そしてその構成員は、どうしたって大人より無力な子ども。こういった、「過半数の感動のために、少数の犠牲(傷つく者)が出る」という事態が起こりがちな土壌でしょう。特に精神面でのそれは、怪我の件数のように具体的でないから、より一層見過ごされるでしょう。

大学くらいになれば、良くも悪くも学校に行かない自由、行事に参加しない自由もあるので、あまり問題にならないかもしれません。

そして社会人になれば、集団での行事というのはそれこそ子供関連の何かくらいで、大人が、大枠としてその集団に所属するところまでは自分の意思、しかし、切り取られたその場については意に反して、場に臨まざるをえない場面は、決して多くない。

そのため、わすれてしまっていました。この種のことへの違和感を。

 

私にも、大人になってから「この種の体験」がひとつありました。この本を読んで、それを思い出したので、書き留めておこうと思いました。

 

それは私が妊婦であったとき、出産予定の病院の産婦人科で開かれていた「母親教室」でのひとこまです。

まさにこのときの私は、「大枠としてその集団に所属するところまでは自分の意思、しかし、切り取られたその場については意に反して、場に臨まざるをえない」状況でした。

ほかの妊婦たちやそのパートナーと、円座をくんで、それぞれの妊婦体験や心配なことなどを語り合うことは、妊娠という初めての経験のただなかに居て、出産というさらに未知の経験を控えた妊婦の不安やストレス、孤立感をやわらげるのに有効なのは大筋としてわかったし、出産したらこんな病院で、こんなスタッフにお世話になるんだなという点がイメージできるようになるだけでも、不安の数パーセントは軽くなるのかもしれない、というのは否定しません。

戸惑ったのはその最後で、眼を閉じさせられ、波の音のようなリラクゼーションCDをかけながら、母親教室担当の助産師さんが、「みなさんに詩を一つ、プレゼントしたいと思います」と読み始めたことには…

「私(胎児)があなたがた(両親のこと)を天の上から選んで地上に降りると決めたのです …云々」

というような、「詩」。

「ええええ??」

しかし私にとっては違和感満々、身の毛もよだつような「詩」でした…

しかしどうやら有名な?ものであったらしく、のちにアマゾンでみつけ、★1~5まで、くっきりと評価が分かれていることに強く納得したものです。

いま、改めてこの本についてる沢山のレビューを読んで、これは内田良さんが指摘する「1/2成人式」問題と同じ構造だなぁと思いました。

私が苦痛に思ったのは、その「詩」のセンスそのものへの嫌悪感プラス、それを妊婦一般の場に持ち込む「執行部」の、無神経さです。

もう少し言うと、

お腹の中にいる胎児に「私があなたを選びました」なんて勝手に吹き出しをつけるなんて、生まれてもいない胎児の人格、勝手に決めちゃっていいのか?、ってことと、

あなたがた(妊婦さんの一部や、その朗読を選ん助産師さん)自身が「胎児のときにこう思っていた」っていう記憶があるとおっしゃるのは勝手ですが、それ、一般化できないことくらい想像がつかないのか?ということ。

当然、私自身にはそんな胎児期の記憶はなくて、ただあるのはさかのぼればさかのぼるほど曖昧な子どものころの記憶と、家族を家族として意識しはっきりと愛し始めたのはいつだったか定かではないけど今は確かにそうであること、生まれる前のことなんて覚えていないという確信があるだけ(それって、変でしょうか?)。

そんな私のお腹の中にいる「この子」に、あたかも一般的なことのように、勝手にそんなセリフをあてがおうとすることの無神経な失礼さ、傲慢さ、センスのなさということに腹が立ちました。

しゃべれないからって、(生物学的に)記憶がないからって、そんな腹話術の人形にされちゃうなんて…

もう少し例をあげるなら、脳梗塞で閉じ込め症候群になったり、認知症の極期の意思疎通ができない人に勝手にセリフをあてがうのと同じ 。子どもが、あかちゃんが、「大人の庇護なしでは生きられない」という事実を、「その人格を含めて大人(親)の所有物である」と解釈しているからそんな勝手なことができるんじゃないか?という方面からも、嫌悪を感じる。とまあ、あえて振り返るなら、そんな感想であったわけです。Amazonレビューでいうなら、★ひとつもつけたくない、というところ。

Amazonのレビューの中で、他の切り口としては、流産や、幼い子供を亡くしたひとたちはどんな気持ちになる か、考えてもみてください!というものもありました。

(私自身も流産は経験していますが、それは思いませんでした。なるほどと思いました)

 

でも、その場で何も言えなかったのは、確かに「それで感動してるひとたちがいる」という事実が、確認するまでもなくその場に匂っていたからです。

「感動に水を差すな」「ひねくれてるね」などという圧力。1/2成人式にしても、母親教室で朗読される「詩」にしても。

また内田さんが語っていた、「つきもの論」。これは、学校行事など皆でやることに危険や、少数の不賛成者は「つきもの」であるので、これをいちいち気にしていたら何もできませんよ、という理屈のことだそう。つまりは多数決の原理、without 少数意見の尊重、ということです。…!それってファシズム…?

 

感動論者から「感動するよね~!」と相槌を求められると、「いや全然。なぜなら」とは答えないまでも、嘘にならない範囲で適当にやり過ごしてしまう。その繰り返しが、長期的にはより彼らを増長させると思います。その結果がこれです。

だから時には、我々もあえて中島義道的になる必要もあるのだと思います。

自分がいいと思ったもの、好きなものはみんなが好くと思ってしまうことじたいは、ある程度仕方がないと思います。

私も、結婚式の引き菓子を決めるとき「ウエストのリーフパイ、嫌いな人なんていないでしょ?」と自信満々で言い放ったのを、母に「それは、単にあなたの好物なだけでしょ。”嫌いな人がいない”ものなんて、ないのよ」といわれてはっとしたことがありました。

何かを不愉快に感じたとき、それを表明する態度をとることは、自分が生きやすい世の中に遠回しに繋がるというだけではなくて、 民主主義の構成員としては義務に近いものなのかもしれない、という思いがあり、こうして書いています。

ただ色合いがネガティブである、というだけで、目を逸らされたり聞き流されてしまう意見があることは残念なことですが、そんな意見に接したときこそ、受け手の側が足腰に力をいれる必要を感じます。

改めて考えれば、ネガティブでラディカルで攻撃的な意見を、ストレートに、でも面白く(あえて「ユーモラスに」と言わない)著述できる中島義道さんや小谷野敦さんの、才能はほんとうに羨ましいと思います。

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